【読んだ】人間関係で大切なのは、包容力か割り切りか。『君がオヤジになる前に(堀江貴文)』

こんにちは!七尾なおです。

Kindleの月替わりセールでお安くなっていたので、堀江貴文氏著作の『君がオヤジになる前に』を読みました。今回はその感想など。

ホリエモンという生き方について思うこと

堀江さんのことは、ライブドア事件で話題になった…という程度の知識しかありませんでした。本を読んだり、動画を見たりするようになったのはつい最近で、「ズバズバ言うなぁ」という印象を持ちました。

わたし自身はどちらかといえば保守的なタイプなので、本を読んでも動画を見ても「うんうん、そうだそうだ!」と諸手をあげて賛成できる意見ばかりではありません。でも、あのキレのあるストレートな言葉がやけに突き刺さってくるのもまた事実で。 それが不思議と、あんまり嫌な感じもしないんですよね。

たぶん、堀江さんの言葉には変にグチャグチャしたところがないからかなぁ、と思うんです。こう言ってみたけれど、腹の中では全然違うこと考えてるよ、というようないやらしさが感じられないんです。それで敵を作るんならしょうがないよね、というような潔さがありますよね。

わたしは「嫌われる勇気」という言葉にビビッと来るような典型的な日本人気質ですから、堀江さんのようにまじりっけのない生き方をしたいと、きっと心のどこかでいつも渇望しているのだと思います。

思考を止めた途端に老いが始まるという危機感を持つべき

さて、前置きが長くなりましたが、書籍の中身に触れていきましょう。本書では『オヤジ』をこう定義しています。

僕が本書で定義する『オヤジ』とは、年齢的なものではない。あらゆること-家族との向き合い方や仕事への接し方、服装や体型に至るまで-を、より良き方向へ改善しようとすることを放棄してしまった者たちへの表現だ。

男性視点で書かれているので『オヤジ』という単語が出てくるわけですが、これは女性にとっての『オバサン』も同じです。女性にとっては服装や体型のことなんかが身近な問題ですから、その点についてちょっと考えればわかることですよね。

いくつになっても、綺麗な人は綺麗です。30歳になったから、40歳になったから、突然『オバサン』になるわけではありません。

年齢を重ねただけでなく、結婚や出産を機に「もういっか」と努力することや考えることをやめてしまった途端に『オバサン』へと変貌していくんです。

これは自分自身にもあるある過ぎて、グサグサ突き刺さりました。

出産後、いかに自分自身に手をかけなくなったか!体型も崩れてしまったし、身に着けるものは育児の邪魔にならないようにと実用性第一でトータルコーディネートするようになり、大好きだった女性らしい服はほとんど処分しました。

「母親になったのだから」「もういいトシなのだから」と鏡を見ずに言い訳ばかりしてきたな……と猛省です。

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これはもちろん、ファッションのことばかりではありません。女性同士のネットワークは強いですから、さまざまな情報が飛び交っています。(とは言っても、わたしはそういうお付き合いが得意でないので、情報がもらえないことも多いですが…)
やれ何歳になったらドコの保険に入っておけだとか、やれ小学校に入学したら塾へやらなきゃ手遅れだとか。

もちろん有用な情報もあります。ただ、それをすべて鵜呑みにしていちゃダメ。頭をひねって、何が自分と家族にとって必要なのか必要じゃないのか、考えなきゃいけないんですよ。

なぜそれを選んだの?と聞かれて、「あそこの奥さんがいいって言ったから~!」なんてドヤ顔で答えちゃうオバサンには、なりたくないものね。

 自分と進むスピード、立つステージが違ってしまった人を切り捨てる

本書を読んだ中で、わたしが一番考えさせられたポイントはここでした。

自分と同じステージに立てない友人は、ばっさり切っていく

僕にとって友人の定義とは、自分の見ている世界を共有できて、同じスピードで成長している人だ。

会社を成長させるために、不要なものはすべて切り捨てた。

「切り捨てる」という強い表現に、抵抗がないと言えば嘘になります。ただ、やんわりとオブラートに包んだところで、いわんとすることは同じだよな、とも。

たとえば人が転職をする時、「今の会社ではお世話になった」「不満があるわけではないが、自分のステップアップのために」などといくら耳触りの良い理由を並べ立てても、結局のところは「今の会社や人間関係を捨てて次へ行く」ということなんですよね。

人生の中で、大きな選択を迫られる機会がゼロということは、おそらくありません。つまり誰かしらがどこかで何かを拾い、何かを捨てているということです。

あえて言うのなら、堀江さんが繰り返し使っている「切り捨てる」という表現には、「捨てたあとには絶対に振り返らないぞ」という強い意志が含まれているように感じます。

何年も前の思い出話を延々と語るような友人は、そばに置きたくない。(中略)同じ仲間とばかり繋がっていたら、世界は広がらないんじゃないのか?

能力のない人は切り捨てなければ、本人のためにもならないんじゃないか?

これも、どちらが双方のためになるかと言えばケースバイケースです。

単なる仕事上のつき合いなら、転職後にもプライベートでお酒を飲むような関係を続けたっていいと思うし、恋人だった相手なら、きれいさっぱり忘れてもらうためにも関係を完全に断ち切る、ということも必要でしょう。「切り捨てる」という強い言葉の持つイメージだけで、それが乱暴なことだと結論づけるのは早計です。

かつて同じゴールを目指して一緒に走っていた人と、やがて足並みがそろわなくなってしまった時、どうすることが最善なのだろう。そう悶々と悩んでいたところにこの言葉を目にして、ハッとしました。

包容力が成功のカギ?

堀江さんは、生きたいように生きていくうえで、それが最も正しく効率的な方法だと考えている一方で、数字や効率は度外視した、人間味あふれる包容力こそが結果的には人生を成功させるカギではないかとも考えています。
古くからの関係性を大切にしながら、成功している人が実は多いのだそうです。

たしかに、堀江さんのやり方は理にかなっていると思いますが、それを受け入れられない人は多いのではないかな、という印象を受けます。それは、ライブドア事件の発端に触れていた箇所からも窺えました。

上司が、「上に立つ者は厳しくしても、憎まれてはいけない」と教えてくれたことがあります。
あいつが憎い!と思うと、足を引っ張ってやりたくなりますよね。いくら間違っていないと頭でわかっていても、絶対に反発してやるぞ、という気持ちが生まれてしまいます。

そこが人間の面倒なところでもありますが、その面倒でどうしようもない部分までも包み込んであげられる、そんな力を持った人が成功するのかな、と。自分なら、そういう人について行きたいと思うかもしれません。

すれ違い夫婦に必要なのは『包容力』なのか『割り切り』か

この「ドライに割り切る」方法と「遅れた人をもまるごと包容力で包んじゃう」方法とを比べて、まわりの心象はともかくとして、どちらも一理あると思います。
そして、これはビジネスの世界だけでなく、ごく一般の家庭問題にもあてはまります。

だいたいの夫婦は20代か30代かそこらで結婚して、その後は何十年という歳月を同じ屋根の下でともに過ごすわけですが、これってよく考えるまでもなく、とんでもないことです。

恋人時代に感じていた「この人となら!」というフィーリングがそのままずっと続くことは稀でしょう。片方が好かれたい一心で無理して合わせていたり、片方が恋は盲目状態でよく見定められなかったり、なんてのはよくある話です。

恋人同士という同じステージに立っていた時には見えなかった違いが、結婚して「夫」「妻」というステージや、出産を経て「父」「母」というステージが追加されることによってどんどん浮き彫りになっていきます。進む方向も、スピードも、夫婦が完全に足並みをそろえていくことは不可能と言ってよいでしょう。

違ってしまうことが悪いことなのではありません。変化は避けられないものです。大切なのは、お互いの違いを認めて尊重し合うこと、どうしても妥協できないことをすり合わせていくことです。それができれば、夫婦という小さな組織を存続させていくことは可能でしょう。

ただ、違いを認め合うことができなかったら?意見のすり合わせができなかったら?目指すゴールも走り続けるスピードも、まったく違えてしまった夫婦はどうしたらいいんだろうか。

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堀江さんの場合は、妻子をも切り捨てたと綴っています。

たしかに、成し遂げたい大きな夢を前にして、こどもの存在が枷になるという感覚はわかります。不自由を感じないといえば嘘になる。 けれどそのカードを切る意味は、わたしが女で母親だからでしょうか、まったく理解できません。

わたしは決してよくできた母親ではないし、こどものためにわが人生を捧げても構わない!なんてこれっぽっちも思っていないけれど、それでもこどもを切り捨てる選択は万に一つもないと断言します。

ただ、夫は別ですよ。夫とわたしは夫婦という組織を構成するパートナー同士です。そこに愛とか情とかが絡んでくるから面倒な話になってくるんですが。

そして今まさに、夫とは立っているステージも、見ている方向も、走るスピードも、何もかもが違ってしまったと感じています。わたしと同じように考えてほしい、同じように行動して欲しいとは思わないけれど、せめて同じ方向を目指していたい。それまでの道のりや手段はそれぞれでいいけれど、ゴールは一緒でありたい。妻はそう願うのです。

わたしには、優れた経営者のように、すべてを包み込む力はありません。けれども繋がった糸をハサミでちょん切って、あとはサヨナラとできるほどドライにもなりきれない。だからグジグジと悩むんですけどね。

正しい答えがないのなら、せめて心地の良い方へ

ひとつ結論にたどり着いたとするならば、「どちらを選んでも正解だし、間違いだ」ということです。正しい答えなんて、たぶんないのでしょう。そう考えれば、最終的に自分が何を選んだとしても、肯定してあげられる気がします。

本書では、堀江さんの意外な一面を知ることもできました。たくさんの人やものを切り捨てて突っ走ってきたけれど、時には大きなショックを受けたり、喪失感に打ちひしがれたりして、決して傷もつかず迷いもせずにここまで来たわけではないということ。
それでも後悔はない、と言い切るところがかっこいいですね。かく言うわたしは、切り捨てられた側のことまでグズグズと考え過ぎちゃうところがあって、優柔不断の権化みたいなヤツなのが悩みのタネです。

ただ、先に述べたように何を選んだところで正解でもあり間違いでもあるわけです。そう考えたら、せめて自分が行きたい方へ進むのが一番いい。そんなシンプルなところで、すとんと腑に落ちました。

選択を迫られたら皮膚感覚を信じろ

皮膚感覚で嫌なものは、絶対に断るべきだ。複雑な時代を生きていても、そこだけはシンプルであるべきではないか。

君がオヤジになる前に

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嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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